第14回東京国際映画祭

わが愛 トークショー

- 参加者(敬称略) -
ゲスト●有馬稲子(出演者)
司会●川本三郎


■川本三郎:叔母さんも宝塚出身だとか?
◆有馬稲子:宝塚に入るまで知らなかったのだが、そうだったらしい。叔母さんといっても、育ててくれた、母と呼んでいた人である。
◆同期に二世が多かったので、デビュー時に揃って襲名させられた。古くさい名前なので嫌だった。もっとモダンなのを自分で用意したのに認められなかった。後で知ったのだが、百人一首(有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする)から取った名前である。
◆川本:百人一首から名前を取るようになったのはいつ頃からか?
◆有馬:それはわからないが、叔母さんの頃はもうそうだったらしい。最近はもうネタが尽きてしまったので、大地真央とか、大仰な名前になっている。

■川本:宝塚に入ったのはいくつくらいの時?
◆有馬:試験を受けたのは15、6歳のとき。中学生のときに韓国から引き揚げてきて、叔父さんの家に転がり込んだが、学校の成績が悪かった。それで高校へは行かずに宝塚音楽学院に入った。宝塚のことは知らなかったが、友達に受けないかと誘われて受けることにした。ところがそのことが学校中に知れ渡ってしまい、関西の人は宝塚に愛着があるので大騒ぎになった。落ちたら恥ずかしいのでたいへんなプレッシャーだった。
◆川本:どういう試験だったのか?
◆有馬:歌や踊り、作文もあったと思う。水着審査もあり、それがすごく嫌だった。今の人はみんな裸みたいな格好で平気で歩いているが、当時はものすごく恥ずかしかった。あのときの恥ずかしさは今も忘れない。
◆川本:水着は自分で用意したのか?
◆有馬:自分で用意した。
◆川本:倍率は?
◆有馬:かなり高かったらしいが、なぜか受かってしまった。叔父さんの家を出られるのが嬉しかった。別の親戚の家に居候して通った。
◆川本:何年か前に自伝を出していますね。『酒とバラの日々』をもじった『バラと痛恨の日々』。その中に、子供の頃のこと、家庭が複雑だったことなども全部書いてある。今は中公文庫に入っているので、是非読んでください。自分が解説を書いている。

■川本:男役が嫌だったとか?
◆有馬:男役は恥ずかしくて、絶対やりたくなかった。初めての男役は『カルメン』の闘牛士。いつもは男役の越路吹雪がカルメンだった。闘牛士は颯爽と登場するところが見せ場なのに、うつむいて出てしまい、あとで怒られた。
◆ほかの人の男役を観るのは好き。越路吹雪には憧れた。それまでは端正な男役が多かったが、越路吹雪は破天荒でユニークだった。
◆川本:越路吹雪は舞台での活躍は多かったが、映画にはこれといった出演作がない。カメラより舞台で映える顔だし。
◆有馬:男役では、新珠三千代が女役で共演したこともあった。とにかく男役が嫌で、演出家のところに男役をふらないでくれと頼みに行ったこともある。

■川本:当時も熱狂的なファンがいたか?
◆有馬:もっとおとなしくて節度があった。まだ貧しい時代だったこともあるが、プレゼントにしても、ケーキ4分の1ホールとか、自分の家の庭に咲いている矢車草とか、とにかく素朴だった。
◆初めて舞台に出たときにすでに応援してくれる人がいて、その人はいまだに応援してくれている。今日も来てくれているかも。

■川本:当時は寮に?
◆有馬:寮もあったが、自分は家から通っていた。

■川本:稽古は厳しかったか?
◆有馬:相当厳しかった。例えばラインダンスだと、全員の脚が綺麗に揃うまで練習が終わらない。できない人がひとりいたりすると大変。

■川本:同期で映画女優になった人はいるか?
◆有馬:八千草薫は2年上。南風洋子が同期。扇千景はひとつ下。
◆自分は宝塚出身者の中では異色で、映画だけではなく、新劇もやったし、民芸にもいたし、テレビにも出たし、いろいろやった。そのせいか注目されて、乙羽信子などがよく舞台を観に来てくれた。
◆川本:今回、乙羽信子の出演作を何にしようか迷った。乙羽信子といえば新藤兼人とのコンビだが、新藤兼人と組んだのは汚れ役が多い。そうじゃないのをと思って『お遊さま』にした。

■川本:宝塚には何年くらいいたか?
◆有馬:短かった。女だけで芝居をするのに物足りなくなって、本当の男の人と恋愛したりする芝居がやりたくなった。宝塚は台詞まわしなどが独特なので、そういう宝塚調が身につかないうちにやめようと思った。研究生の4年目くらいだったと思う。
◆川本:宝塚から映画に行った最初の人は?
◆(ふたりでいろいろ名前を挙げていたが追いきれず。)
◆有馬:自分たちの頃にはもうふつうだった。
◆川本:ある年齢以上になるといづらいか?
◆有馬:当時はそんなことはなかった。最近は随分変わって、肩たたきがあるそうだ。スターになってもすぐにやめさせられるらしい。
◆川本:将来のことをよく考えてやめたのか?
◆有馬:あまり考えなかった。本当の芝居をしたかったから。

■川本:松竹の女優というイメージが強いが、まず東宝に入られたんですね。
◆有馬:東宝と大喧嘩して、松竹へ移籍した。当時はホームドラマが流行っていたが、そういう脚本ばかりなのが嫌で、もっと『エデンの東』みたいなのがやりたいとか、あちこちで文句ばっかり言ってたらほされた。
◆何か月も仕事がなかった後に、『夫婦善哉』の淡島千景の代役が来て、久しぶりなので張り切った。着物を着る役だと言われたので、その日のうちにデパートへ買いに行った。役のための練習に行き、1週間練習してやっと慣れてきたと思ったところで、映画が中止になった。
◆結局『夫婦善哉』は元どおり淡島千景がやったが、結論からいえばそれでよかったと思う。当時は若すぎて、夫婦の世界などよくわからなかったから、自分がやっていたらひどいものになったと思う。
◆要するに下ろされたわけだが、中止になったはずなのにすぐ淡島千景主演で撮り始めたのでアタマにきた。岸恵子に文句を言ったら松竹へ誘われたので移籍した。自分は喧嘩早くて、それで随分人生を狂わせたと思う。
◆川本:それで「痛恨の日々」なんですね。
◆有馬:当時は今と違って、女優が自己主張できる時代じゃなかった。当時だったら、桃井かおりなんて絶対にほされている。

■川本:松竹ではどうだったのか?
◆有馬:作品的には恵まれた。『抱かれた花嫁』とか、中村登監督や小津安二郎監督の作品など。
◆川本:松竹の女優というイメージが強い。
◆自分の義理の兄が富田浩太郎(?)という俳優で、『胸より胸に』で有馬さんと共演したが、朝日新聞で演技を酷評された。
◆有馬:自分も酷評続きだった。そんな中で谷崎潤一郎に褒められたことがある。今井正監督の『夜の鼓』で。
◆この映画では、監督にものすごくしぼられた。1週間続けて毎日100回、同じシーンをやらされた。でも本当に下手だったから仕方がない。映画を観ればそれがどのシーンかすぐわかる。当時はみんな下手だった、岸恵子も。今の俳優は演技がうまい。
◆川本:でも、今の人はオーラがない。昔の女優はオーラがあった。
◆有馬:昔はスターの数が少なかったからでは?

■川本:にんじんくらぶの結成は、自分の作りたい映画を作るためか?
◆有馬:昭和29年に結成した。五社協定に抵抗するために、岸恵子、久我美子と一緒に作った。当時はまだ誰もやっていなくて、独立系のはしり。川端康成など、文豪が応援してくれた。
◆川本:当時は文学界と映画界が近かった。小津安二郎と志賀直哉とか。
◆有馬:川端康成とは電車の中でナンパしたのが知り合ったきっかけ。見かけてすぐに川端康成だとわかったので、「お荷物お持ちしましょうか」とか言って声をかけた。それで知り合いになり、『川のある下町の話』の出演依頼が来た。
◆川本:今は文学界と映画界の交流はほとんどない。女優と結婚している作家もいることはいるが、特に名前を挙げるほどの作家でもない。

■川本:大江健三郎と喧嘩したそうですね。
◆有馬:防衛大学校を1日見学して、雑誌にそのルポを書くという仕事があった。自分は「何も知らない若者が、ここに入って染められてしまうのが恐い」というようなことを書いた。ところが記者が勝手に手を加えて、美化するような記事にしてしまった。大江健三郎はそのルポを読んで、「社会に影響力を持つ女優が、こんな記事を書くのはけしからん」というようなことをコラムに書いた。自分は書いていないので、大江に連絡して文句を言ったところ、会うことになった。当時は田園調布に住んでいたので、田園調布駅前のジャーマン・ベーカリーで会う約束をしたが、大江はいっこうに来ず、2時間待っていたら電話がかかってきた。彼は、調布のドイツ屋というパン屋(筆者注:違うかも)で2時間待っていたらしい。その後会って友達になり、誤解が解けて、コラムもちゃんと書き直してくれた。
◆川本:俳優の自伝はゴーストライターが書いていることが多いが、自伝とかそういったルポとか、自分で書いているのか?
◆有馬:全部自分で書いている。以前、東京新聞にコラムを連載していたこともある。書くのが好きだ。自伝は、芝居などの仕事の合間に3年間くらい書きためていたものをまとめた。

■川本:代表作は何か? 衆目の一致するところは『夜の鼓』だが。
◆有馬:『夜の鼓』はさっき話したように随分しぼられた思い出があるし、今日の『わが愛』にも愛着がある。『わが愛』は、共演の佐分利信がとても素敵だった。今は俳優に限らず、あんなに素敵な人はいない。日本の男の渋味やちょっとずるいところがよく出ている。
◆彼は撮影の時もほとんど口をきかない。朝、「おはようございます」と言うと、ぼそぼそと「おはよう」と言って、それ以外全く喋らなかったりした。今、ああいう人がいたら結婚したい。
◆川本:佐分利信や森雅之が好きだという人は多い。
◆有馬:森雅之とは『夜の鼓』で共演した。とてもしゃれている人。
◆川本:来年は男優特集にしようか。

■川本:『わが愛』のロケ地はどこか?
◆有馬:原作では中国山地である。しかし、行ってみたら山が穏やかすぎてロケ地としてはふさわしくないということになり、信州のアルプスの、目の高さに山が聳えているところで撮った。旅館などなく、村の家に泊めてもらって撮影をした。
◆自分が泊めてもらったのは紙問屋だった。そこで出されるご飯がすごくまずかったので、撮影が終わるまで毎日、その家のご飯を作った。小さい子供がいて、お子様ランチを作ってあげたらすごく喜ばれた。

■川本:『わが愛』というタイトルは?
◆有馬:原作のタイトルは『通夜の客』。当時の松竹は、それでは客が入らないと思ったようで、『わが愛』となった。

■川本:もんぺをはいていましたね?
◆有馬:戦中から戦後が舞台なので、もんぺもはいていた。
◆この小説にはモデルがいる。新聞記者で、戦争に協力したことを後悔して、山にこもって中国塩業史を書いた人。自分はその押しかけ愛人の役。
◆川本:愛人の役が多くないか?
◆有馬:そうでもない。愛人役が多いのは新珠三千代。

■川本:舞台でも活躍しているが。
◆有馬:帝劇のこけら落としの『風とともに去りぬ』とか、『奇跡の人』とか、いろいろやってきた。
◆川本:近々、また舞台をやるとか?
◆有馬:11月に紀伊国屋ホールでイタリア喜劇をやる。今、稽古しているところ。イタリア人はよく喋るので、台詞が多くて大変。家庭の崩壊の話だが、すごく面白い。
◆川本:舞台は現代か?
◆有馬:原作は現代ではないが、現代に置き換えてやっている。
◆川本:舞台は映画とはかなり違うか?
◆有馬:まず台詞を覚えなければならない。また、映画は監督が俳優の感性を引き出すが、舞台は自分で考えないといけない。その分、達成感も大きく、やめられない魅力がある。
◆川本:日本には、舞台に出ない大女優もいるが。
◆有馬:ハリウッドの俳優は、スターになった後で芝居の勉強をする人が多い。あれはとてもよいことである。

■川本:今回のセレクションの感想は?
◆有馬:観ていない作品が多い。
◆川本:宝塚出身者との付き合いはあるか?
◆有馬:舞台を観に来てくれたりすることはあるが、個人的にはない。宝塚のOB会にもあまり出ていない。
◆新珠三千代が亡くなってしまったのは非常に残念だ。見かけによらず面白い人だった。

■川本:『わが愛』のロケのときに料理を作った話が出たが、今も自分で料理を作っているのか?
◆有馬:自分で作らないで誰が作ってくれるのか。料理は好きなので、自分で作る。
◆川本:以前話して印象に残っているのは、有馬稲子のような大女優は車で仕事場に行くのがあたりまえなのに、電車で行くということである。井の頭線で会ったこともある。
◆有馬:映画に出るようになってから、ベンツで通っていたこともあった。二度目の夫と離婚して貧乏になってからはずっと電車である。電車で通うようになって、なんで今まで乗らなかったのだろうと後悔した。中吊り広告を見ると世間がわかる。
◆今もよく電車に乗っている。特に千代田線にはよく乗る。
◆最後に宣伝をする。近年、源氏物語の朗読を継続的にやっている。来年3月2日に博品館でまた源氏物語の朗読をするので、ぜひ来てください。
映画人は語る2001年10月28日ドゥ・マゴで逢いましょう2001
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作成日:2001年11月13日(火)
更新日:2004年11月29日(月)