TOKYO FILMeX 2002

『右肩の天使』Q&A

開催日 2002年12月8日(日)
場所 有楽町朝日ホール
ゲスト Djamshed Usmonov(監督)
司会 市山尚三
ロシア語-日本語通訳


■司会(日本語):最初に一言ご挨拶をいただきたいと思います。
◆Djamshed Usmonov(ロシア語):こんにちは。本日はどうもありがとうございました。この映画祭で私の作品を上映していただき、ありがとうございました。この映画に携わってきた私のグループ、すなわちイタリア、スイス、ロシア、そしてこの映画に出てきたタジキスタンの仲間がやってくれたことに対して感謝したいと思います。
◆司会:皆さんご存じと思いますが、Usmonov監督は第1回のFILMeXで『蜂の飛行』と『井戸』という作品が上映されました。そのときは残念ながら来日されなかったんですが、今回来ていただいてこちらも非常に嬉しく思っています。

■観客1(日本語):この映画の出発点はどういうところにあったのかをお伺いできればと思います。アイデアなり事件なりを教えていただければと思います。
◆Djamshed Usmonov:こういう質問はインタビューなどでよく受けるんですが、そのたびに違う答えをしています。というのは、映画というのはただひとつのことではなくていろんなことがアイデアを作っています。いつから始まったかというのは難しいです。映画がどこから出てくるかというのは自分だけのことではなくて、もしかしたらここにいらっしゃる皆さんから始まっているかもしれません。映画は自分の血であり肉であるんですが、それがどこから始まったかというのは非常に難しい問題だと思います。

■Djamshed Usmonov:もし質問がないようでしたら、私のほうからこの映画をどのように撮っていったかということを簡単にお話ししたいと思います。
◆ご存じかどうかわかりませんが、タジキスタンという国はアフガニスタンのすぐそばで、去年のテロ事件以降、いろいろと注目を浴びている地域です。以前はソ連の中のひとつの国でした。ソ連時代は20本の長編映画と50本くらいの短編やアニメなどを作っていて、映画はけっこう盛んでした。ところが、ソ連が崩壊してタジキスタンという国ができると内戦が始まって、それからは映画は3、4本作るのがやっとです。本当にそれ以降、多くの映画人が仕事を失い、タジキスタンから出て行くという状態になりました。私自身もタジキスタンから出て行きました。映画を撮れないということになって、映画を作る人たちは自分の芸術が表現できなくなってしまい、それは人にたとえると自分が吸う空気がなくなってしまったのと同様であり、本当に悲惨なことでした。
◆この映画のカメラマンや音声さんやプロデューサーはヨーロッパの人です。ですから、撮影のときにわざわざヨーロッパから来るんですが、撮影をしていたところは非常に危険な状況で、ヨーロッパの人が人質になったりしていました。テレビやドキュメンタリーを撮りにくる人も大勢いましたが、そういう人も非常に危険な状態であり、我々が行っている地域には来れないこともありました。そういった危険の中で撮っていった映画だということを認識してください。でもこうやって映画が完成して皆さんにお見せでき、幸せだと思います。
◆ここで再び皆さんの質問をお受けしたいと思います。

■観客2(日本語):主人公が映写技師として映画館のようなところで映画を上映して、インド映画の娯楽映画みたいなのがかかっているシーンがあるんですけれども、タジキスタンでもインド映画というのは人気があるのでしょうか。それからそれ以外の映画はどのくらい観られているのか、どんな国の映画を観ることができるのかということを教えてください。
◆Djamshed Usmonov:今は残念なことに、タジキスタンでインド映画は全く観ることができません。この映画の中の映画館はセットで作っているんですが、撮影の前後に実際に映画を上映して、まわりの子供たちなどに見せました。15、6歳の子供たちがよく観に来たんですが、彼らは、映画館でスクリーンで映画を観るというのは初めての経験でした。映画を観るということにものすごく驚いてくれたのを憶えています。考えてみると彼らは本当にかわいそうだと思います。私が子供の頃は、小学生の頃から毎日映画館に行って、小学生料金の5コペイカというものすごく安いお金で毎日映画を観ていました。Federico Felliniの映画とか、ソ連のMikhail Romm監督の作品とか、そういったものが毎日観られる環境にありました。

■観客3(日本語):出ていた俳優の方が皆さんとてもよかったんですけれども、タジキスタンで映画関係というか俳優だけで生活をしていくのはかなり難しいと思うんですが、実際にロシアの方に行って仕事をするというのは、独立した共和国の俳優や映画関係者の人はできるんでしょうか。それとも差別があるとか、ロシアで仕事をするのはあまり好まないという独立心があるんでしょうか。私の聴いたかぎりでロシア語がどのくらい方言というか異なるかということがわからないので、そのあたりをお聞きしたいと思います。
◆Djamshed Usmonov:はっきり言って、さっきも言ったように映画俳優という職業がなくなっていますので、この映画に出ている人たちも、いわゆる俳優ではなく、普通に生活している人たちから選んでいます。彼らはこの映画の中で演技をしているのではなくて、普通の生活をしているところを私は撮ったのです。お母さん役をやったのは私の母であり、主役をやったのは私の兄であり、子供は私の兄の子供です。
◆職業俳優の話なんですが、タジキスタンは都市が非常に荒廃していて、人々は苦しい生活をしています。俳優さんたちも俳優をやめていっています。先ほど外国へ行ったという話をしましたが、彼らはロシアへ行って俳優の仕事をしているのではなくて、この映画の中にあるようなブラックなビジネスをやったり、そういったような状況です。

■観客4(日本語):お母さんが村長に最後のお願いをしに行くときに、村長さんが本を開いて、あなたと自分の母親が死ぬのを交換する、明日かもしくは3ヶ月後だみたいな話をするんですけれども、あの本はいったい何なんですか。
◆Djamshed Usmonov:この映画の中の一番核心部分に触れたのかもしれませんが、非常に難しい質問です。これが存在するかしないかと言われると難しいんですが、幻想的なアイデアで、戸籍謄本みたいなものに、何日に死ぬとか、もっと人の一生を左右するような数字を書いたものがあると想像して作りました。日本だったらコンピュータにそれが全部登録されているのかもしれませんね。
◆司会:村長に会うところはお母さんの夢ということなんでしょうか。
◆Djamshed Usmonov:そのとおり、夢です。
◆司会:村長が実際に持っているわけではなくて、夢の中の村長が持っていたということだと思います。
◆Djamshed Usmonov:お母さんは村長やいろんな人に頼みに行くんですが、何をやっても助けられない状況になって、彼女は夢の中へ逃避していくわけです。タジキスタンという国は、こういった神がかり的な幻想の世界がまだ残っているんですよ。


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作成日:2002年12月11日(水)