バトパハ

Batu Pahat, 峇株巴轄



バトパハ バトパハの街 バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街ずじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊カキ・ルマのある家々でつゞいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹きぬけてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている。(『マレー蘭印紀行』)
バトパハの街角 日本人クラブ 日本人クラブ そのバトパハ河にそい、ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に私は、旅装をとき、しばらく逗留することになった。ゴム園にゆくにも、鉄山を訪ねるにも、ここは重要な足がかりである。山から出てきた人達はここに宿泊し、相談ごとに寄合ったり、撞球をしたりする。夜は、早便でここへつく日本の新聞をよむために事務所の洋燈ランプのしたにあつまる街の人たちもあった。(『マレー蘭印紀行』)
部屋の三方に、一一指で押すと、蝶がうしろで羽をあわせる形に、鎧扉がばたばたとひらいて、風が吹き通し、朝な夕な、部屋は空に乗りあげる。バトパハのどこの鎧まどをひらいてもみえるように、そこからも、水煙りをあげて瀟洒な若々しいカユ・アピアピがみえた。(『マレー蘭印紀行』) 日本人クラブ 土着という感のうすい日本人は、クラブの建物さえ、かりずまいの名の華僑からの借家住いですませている。(『マレー蘭印紀行』)
渡船場 渡船場 渡船場 バトパハ河の碼頭にそう日本人倶楽部の三階に私は、旅装を解いて、すでに二週間近くになる。鎧まどをひらくと、そとは、いちめんの朝霧であった。(『マレー蘭印紀行』)
バトパハ河 バトパハ河 街のつきあたりに、満水のバトパハ河のうちひらけるのをながめたとき、私は、しおやまみずのいりまじた水のなかに、頭からずんぶりとつけられたような気がした。(『マレー蘭印紀行』) バトパハ河
岩泉茶室跡 南洋の部落のどこのはずれへいってもみうけられる支那人の珈琲店がこの河岸の軒廊のはずれにもあった。(『マレー蘭印紀行』) 民天茶室 珈琲店
その店に坐って私は、毎朝、芭蕉ピーサン二本と、ざらめ砂糖と牛酪バタをぬったロッテ(麺麭)一片、珈琲一杯の簡単な朝の食事をとることにきめていた。(『マレー蘭印紀行』) ロッテ 市場 そゞろあるきのかえり路には、きまって市場のなかに店をひらく総菜屋のなかへ入っていった。一日のうち、もう一度、午後二時頃にもここへやってくる。その時刻には、総菜の店は取片付けられていて、車屋台のうえでまんじゅう屋が商売あきないをしていた。蒸籠をあげ、なかのふかしたてのまんじゅうを、布袋和尚のようにふとい腹をつき出したおやじさんが、とり出して並べてくれるのを、苦力と一緒に、竹を曲げてつくった小床几に腰掛けて待っている。脂のように茶さびでくすんだ小茶碗に、さめた渋茶をびしょびしょとしたゝらせてくれる。(『マレー蘭印紀行』)
ドリアン市場 バトパハの小さなさかり場(そう仮に呼ぶことにするが、それは、川寄りのマーケットのあるまわりの小区域で、華僑の店もあり、広東女の遊廓もある、アラブや、ヒンズーの喫茶店もある)と、日本人クラブの方へわかれる路で、ふたりは別れる。(『西ひがし』) 市場
天后宮の廟の屋棟むねの宝珠が月の出にあかるみそめると、廟前の石橋に腰をかけて、ちゃん刈で、蝋引ズボンをはいた支那の若い衆が、横笛の稽古をしている。(『マレー蘭印紀行』) 天后宮 天后宮 何万、何十万ともしれない燕の大群が、そのさえずりで街を占領していることもある。電線という電線は、燕が乗るので、低くたわんでいる。 (『西ひがし』)
映画館 映画館 街はずれの映画館では『七剣十三侠』『丹家二小侠』などの標題の、荒唐な支那映画をやっていた。空中を人が走ったり、仙人が口から吐いた剣が、敵味方空中でであって火花をちらしたりという、まことに支那らしいものであった。 (『マレー蘭印紀行』) 燕



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作成日: 1999年6月20日(日)