蘇州

Suzhou, そしゅう


私たち夫婦と秋田義一と三人で、しょうばいかたがた蘇州へ息抜きをしようと計画がはじまったのは、前年の暮あたりからであって大陸のおそい春が、柳が芽ぶき、菜の花の緞通だんつうが、江湾チャンワン一帯の田野を敷きつめても、まだまだ腰のあがる段取りにはならなかった。 列車 列車 十分間もかからないうちに、停車場についた。都合のよいときはよいもので、いつもは、二十分や三十分は遅れるのが当然な南京方向ゆきの列車が待っていて、車内も空席だらけであった。
蘇州 古都蘇州の魔力の根源は、なによりも水である。城内の風情ある街衢まちのすべてが、水に浮き、四通八達の運河に架った一瘤駱駝の背に似た[夸リ]橋の数は、ひとくちに、三千五百橋とよばれている。 運河 それでも、最初の日は、玄妙観(道教寺院)と双塔寺サンタアスウを見物し、秋田の画材を物色したし、二日目は、水に姿をうつした滄浪亭をカンバスにおさめるのを、油絵など画いたことのない私達二人がとやかくとめくら滅法なあらさがしの口出しをした。
双塔寺は荒野のなかに並んで立ったおなじような[土專]塔が二つ首をかしげあっている風情が、戦後のこの頃、人気者として出てきた双生児姉妹のように、みたところ侘びしげで、悲しみを互いに支えあって立っているといったところがあった。 双塔 そのあいだに、表面のうすい氷を張ったように非情を装った「双塔寺」の画が出来あがり、張継の「楓橋夜泊」の詩でむかしから日本人に親しまれた「寒山寺」も画きあがった。寒山寺は、城外の運河つづきの人里はなれたところにあって、ひどい荒れかたであった。白壁に囲われた寺内には、堂宇らしいものはなく、中庭には、こわれた瓦礫のちらばったあいだから、ことしの春の雑草が芽ぶいているだけで、囲いの一方の隅に鐘楼にのぼる階段があったが、踏み板がぬけ、手すりがぐらぐらしているので、首をのばして鐘のありかを見さだめるのがせいぜいの努力であった。おもったより小さなその吊鐘は、大きなひび割れが縦に走っていて、鐘の音いろがきかれるとはおもえなかった。 双塔寺
滄浪亭 滄浪亭 寒山寺
「滄浪亭」の画が、三枚の作品のなかで、彼の本意とはうらはらな結果かもしれないが、口紅をふいた紙のような、ぬれてあざやかな情感をにじませたうつくしい絵であった。彼が日本人である身分証明のような作品である。 鐘楼 寒山寺
楓橋 寺のすぐ外をながれるクリークに架った変哲もない駝橋が楓橋で、「歓迎蒋主席」のビラが殺風景に貼りつけられているだけで、新芽をふいた一株の柳の下に苫船が一艘つないであるのが、ありふれた点景になるにすぎない。 楓橋 古い都の蘇州は、こまかく見てあるけば、旧跡名所の類の無数にあるところであるが、私たちのいずれもが、その方の教養が乏しいので、撫でるようにさらりと見物しただけで、その翌日は早々、上海行きの汽車に乗り、日のたかいあいだに北站に帰りついた。
翌日、留園の庭見物を最後にして、持金が手ばたきにならないうちに、私たちは上海にかえることに一決した。 留園 留園 北塔

引用はすべて『どくろ杯』からです



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作成日: 1999年8月14日(土)