流浪到風櫃

1997年4月30日(星期三)


黒汁事件

4月30日水曜日。高雄。晴れ。

ホテルのコーヒーショップで、宿泊料に組み込まれている朝食を食べる。台灣に来てからコーヒーを飲んでいないので、「コーヒーがついていてちょっと嬉しいなぁ」と思いながら、一口、口に入れる。予想に反して冷たい。アイスでも仕方がないと思い、飲み込む。違う、これはコーヒーではない。……黒汁だった。

フロントにお願いしていた飛行機のチケットは、行きは取れたが、帰りの台北行きは満席とのこと。おじさんは、「着いたらすぐに航空会社のカウンターへ行けばだいじょうぶ」と言う。よくわからないが、帰りのことは行ってから考えることにする。高雄-馬公の片道チケット(正規料金)は、NT$909(¥4300)。


『風櫃の少年』

“風櫃來的人”

今日の主な予定は、“風櫃來的人”のロケ地探しだ。

“風櫃來的人”は、侯孝賢の自伝的映画である。一般には、“童年往事”が自伝的映画といわれている。“風櫃來的人”はフィクションだが、設定や出来事には“童年往事”と共通する部分も多く、彼自身の自伝的エピソードが下敷きになっているようだ。そして何よりも、阿清の心的な成長過程には、彼自身の心情が色濃く反映されているように感じられる。

童年往事”は、登場人物のだれかを中心に据えることなく、侯孝賢の家族の物語は、徹底して客観的な視点から見つめ直されている。どの人物も、そして木や広場や通りといった自然物や風景も、ロングショットに象徴される少し離れた距離から、同じ重みで描かれている。この映画によって描かれるのは、家族そのものというよりも、彼らの置かれている場であり、ある時代、ある場所の空気である。

これに対して“風櫃來的人”は、あくまでも主人公の阿清が中心であり、彼の心情が主観的に描かれている。 これは高雄に出てくる後半以降顕著であり、彼の意志的な視線が印象的だ。おそらく侯孝賢は、この映画によって自分の記憶を主観的に外在化することで、“童年往事”の徹底した客観性を獲得し得たのではないだろうか。そういう意味で、大傑作“童年往事”を撮るために、この“風櫃來的人”はなくてはならない作品だったといえるだろう。

しかしそんなことは抜きにしても、この映画はかなり好きな作品だ。監督はまだ若くて、それだけに瑞々しさが溢れている。主観的な思い入れと、背景に撤した風景と、ヴィヴァルディのドラマティックな音楽によって語られる阿清の青春は、侯孝賢の映画にはめずらしく、甘美でセンティメンタルである。


旗津半島への渡し舟乗り場

“風櫃來的人”

[鼓山輪渡站]

駅前のバスターミナルから1番のバスに乗り、旗津半島への渡し舟乗り場、鼓山輪渡站へ行く(NT$12=¥57)。

旗津半島は、高雄市の南側に、高雄港を覆うように位置する細長い島である。島なのに半島という名前なのは、もともと半島だったのが1975年に切り離されたからだ。現在は、島の南側は海底トンネルで本土とつながっており、バスでの行き来も可能である。島の北側は、これから乗る渡し舟で本土と結ばれている。

“風櫃來的人”で、高雄に出て来た阿清(鈕承澤)たち3人が住むのがこの旗津半島である。これから住むアパートに初めて行くとき、3人は阿榮(張世)のお姉さんに連れられて、この鼓山輪渡站から渡し舟に乗っていく。その同じルートを私たちも辿ろうとしているわけだ。しかし、鼓山輪渡站は建て直されて、映画に出てくるものとは違っていた。


渡し舟

“風櫃來的人”

[渡し舟]

渡し舟の料金はNT$10(¥47)。住民の足として活用されており、便数も多い。バイクや自転車と一緒に乗ることもできる。映画では、阿清たちが工場へ出勤するときや街へ遊びに行くとき、何度もこの舟に乗っており、黄錦和(庹宗華)がバイクと一緒に乗るシーンもあった。

旗津半島まではほんの5分くらいだが、どこかうらぶれた感じのする港内の景色は、香港の天星小輪スターフェリーなどよりずっと風情がある。半島側の旗津輪渡站に到着すると、バイクや自転車に乗った人たちが、どんどん飛び出して行った。


小杏が占いをする廟

“風櫃來的人”

[廟前路]
[旗後天后宮]

舟着き場近くから延びる廟前路の中ほどには旗後天后宮があり、このあたりはちょっとした繁華街になっている。阿清たちのアパートもこのあたりにあり、この通りで買い物をしたり食事をしたり、また廟にお参りしたりと、彼らの生活の場になっていた。映画の中では、もっとたくさんの屋台が出ていてかなりの賑わいだが、現在はそれほどでもない。

阿清たちがここに住み始めてまもなく、同じアパートに住む小杏(林秀玲)が、彼らを誘って買い物に行く。その帰り、彼女が占いをする廟が旗後天后宮である。廟の中の物の配置など、多少違うところもあるが、基本的には変わっていない。すぐ横にある泡沫紅茶の屋台でお茶を買い、阿清たちが小杏を待っていた入口の石段に腰掛けて飲む。小さな廟だが、お参りの人が絶えない。


阿清たちが住むアパート

“風櫃來的人”

阿清たちが住むアパートはこの近くだと思い、かなり探したが見つからなかった。もう残っていないのだろうか[注1]

映画では、二階部分に、黄錦和と小杏のカップルと、阿清たち3人の二組が住んでいるのだが、アパートというよりふつうの家を分けて借りているという感じだった。広い廊下やヴェランダがあり、とても気持ちのよさそうな家だが、プライヴァシーは守れそうにない。黄錦和や小杏たちとの親しいつきあいや、それを通じて阿清が小杏に抱き始める想いは、この家の構造と無関係ではないように思われる。

旗津半島は、夥しいバイクや車の群れと、騒音や埃に象徴される高雄の中心街とは異質の、のんびりした場所だった。ガイドブックにも載っているが、この映画がなければ来なかったかもしれない。そうしたら高雄の印象も随分違ったものになっていただろう。ここを訪れる機会を与えてもらい、“風櫃來的人”に感謝したい気持ちだ。


高雄港

“風櫃來的人”

[踏切]

渡し舟で本土に戻り、高雄港へ行く。阿清たちはフェリーで高雄にやってくる。高雄の最初のショットは、港の鉄道の踏切だ。 澎湖島にはない鉄道が走り、広い道路で遮断機が上がるのを待つ大勢の人や車。大都会に来たことが一目でわかるショットだ。踏切は見つけたが、まわりの景色があまりにも変わっており、ここがそうなのかどうか判別できない。

澎湖島へ行くフェリー乗り場も探してみたが、港は広く、案内はなく、結局わからなかった。やっと手配写真ができたらしく、誘拐事件の容疑者の写真があちこちに貼られている。

港での収穫がないまま、バスで街中に戻り、北京餃子館で昼食。台灣啤酒、水餃、炒青菜、皮蛋豆腐などでNT$185(¥875)。こういう小さな食堂では、店内にある冷蔵ケースから勝手に飲み物を取って飲むと、後で一緒に計算してくれる。今回の旅行で覚えたこのシステムも、だんだん慣れてきて平然とできるようになってきた。ここは通りすがりに入った店だったが、店の人は親切だし、料理もとてもおいしかった。


木瓜牛乳は高雄牛乳大王本店で飲もう

3年前に台北で初めて飲んで以来、高雄牛乳大王木瓜牛乳パパイヤミルクのファンだ。いつか高雄の本店で飲むのが夢だった。“風櫃來的人”のロケ地探しと並んで、今回の高雄訪問の重点実施項目である。台北では、毎日のように西門町の高雄牛乳大王の前を通ったが、「木瓜牛乳は高雄牛乳大王本店で飲もう」キャンペーンのもと、ずっと我慢し続けてきた。

『地球の歩き方』の住所をもとに、本店をめざす。かなり歩いたが、疲れるほど、汗をかくほど木瓜牛乳がおいしくなると思い、あまり苦にならなかった。しかし辿り着いた場所に、高雄牛乳大王本店は跡形もなかった。


阿榮のお姉さんが住む愛河沿いの街

“風櫃來的人”

[七賢橋]
[河西路]

高雄には、街の真ん中を愛河という大きな河が流れ、いくつかの橋が架かっている。その中で、七賢橋のあたりが“風櫃來的人”に登場する。

高雄に出てきた阿清たちは、阿榮のお姉さんを頼るが、彼女は、愛河の西岸の通り、河西路に住んでいる。彼らがお姉さんを訪ねるときに、七賢橋のある通り、七賢二路と河西路の交差点から河西路を少し入ったあたりが何度か出てくる。彼らはここで道に迷ったり、怪しげな客引きに声をかけられたり、挙げ句の果てに騙されたりする。このあたりは、高雄という都会の嫌な面を体験する場所として描かれているようだ。

映画でも看板が見えているように、実際の河西路は薬問屋街である。愛河沿いは公園になっており、比較的静かな通りだ。薬屋の看板はほとんど新しいものに変わっていたし、歩いてくる阿清たちの後ろに見えていた廟も改装されていたし、七賢二路と河西路の交差点にあった通り名を示す標識もなくなっていた。しかし、街のたたずまいはほとんど変わっていない。


道路封鎖

七賢橋の写真を撮っていると、一台のパトカーがやってきた。降りてきたのは、軍服にヘルメット、手には銃を持った一人の兵士だ。橋のたもとに彼を直立不動で配置して、パトカーは走り去った。嫌な予感がした。

高雄牛乳大王の支店をめざして歩き始める。警官の姿がやけに目につく。ほとんどの交差点に警官がいるようだ。交通整理の格好ではない。時計はまもなく午後2時になろうとしている。この時刻には見覚えがある。予感は確信に変わりつつあった。

午後2時。サイレンが鳴り始めた。人々の動きが停まる。車、バイク、自転車は道端に停車し、急速に通りから人の姿が消えていく。店を閉めてシャッターを下ろす店もある。5分とたたないうちに、街は静寂に包まれた。

時おり、警官の指示を聞かず、バイクがスピードを出して走り去る。警官の目を盗んで通りを横断する人や自転車。通りを横切らなければ動いてもいいこと、歩行者はあまり問題ではないことがだんだんわかってきた。私たちは、少しずつ、高雄牛乳大王の方へ移動し始めた。

しかしここは、交差点が多く警官も多い大きな通りである。飛行機の時間も気になり始めた。4時25分の飛行機なので、3時には荷物を取りにホテルへ戻りたい。高雄牛乳大王とホテルは反対方向で、ここはどちらからも中途半端な距離だ。やむなく高雄牛乳大王を諦める。

2時半が近づくと、人々がそわそわし始めた。座っていた人がバイクや自転車にまたがり、ちらちらと腕時計を見ている。すでにエンジンをかけている人もいる。2時半少し過ぎに再びサイレンが鳴り、人々がいっせいに動き始めた。多くのパトカーや白バイがいっせいに同じ方向へ帰って行く。かなり不気味な光景だ。


真相

ホテルのフロントで、おばさんに真相を聞く。戦争に備えた訓練で、有時にすばやく道路をあけるためのものらしい[注2]。おばさんは「すぐに終わるから平気」と言うが、移動予定の旅行者にとってはあまり平気ではない。年に2回とのことで、たった10日の滞在で1年分体験してしまったことになる。1回くらいは話の種だが、2回となると不運である。


立榮航空

高雄車站前からバスで高雄國際機場へ行く。市内料金NT$12で行ける近さが嬉しい。国内線ターミナルはあまり大きくはなく、田舎の空港っぽい。乗る予定の4時25分発、立榮航空(Uni Air/UIA)879便、馬公行きは遅れている。北京語のみの放送では遅延予定時間なども伝えられているが、電光掲示板の表示は‘遅延/Delay’のみ。ホテルのフロントのおじさんに反対された4:30発の大華航空(GCA)9092便が、定刻通り離陸していく。

UIA879便は1時間ほど遅れて離陸した。左右3列ずつ座席がある広さの飛行機だ。水平飛行になるとすぐに、オレンジジュース、アップルパイ風菓子、クラッカーをパックした箱が配られる。クラッカーがなかなかおいしかったが、飛行時間は約30分で、食べ終わらないうちにテーブルを戻す時間になる。食べるのに忙しく、初めての台灣国内線を楽しむゆとりもなかったが、客室乗務員もかなり忙しそうだった。

やがて、島の姿が眼下に広がり、馬公機場に着陸。「軍用空港のため撮影禁止」という意味のことが書かれている。とても小さな空港で、預けた荷物を積んだトラックがやって来るところも、自分の鞄がターンテーブルに置かれるところも全部見えてしまう。到着便はこれが最後で、例の大華航空機もとっくに到着しているようだ。出発便も終わっているためカウンターは閉まっており、帰りのチケットは買えなかった。


馬公へ

馬公機場は、澎湖島の中心・馬公から10kmほど離れたところにある。飛行機が遅れたため、もう最終バスは終わっていた。仕方なく嫌いなタクシーに乗る。馬公市内まで定額でNT$280(¥1324)。痛い出費である。運転手は気のいいおばちゃん。宿は決めていなかったが、候補にしていた長春大飯店へ行ってもらう。おばちゃんは、コミッションが貰えるらしい和田大飯店というのを強力にプッシュする。和田大飯店の横を通り、「ほら、綺麗でしょう」というようなことを言う。たしかに綺麗そうだが、予算オーバーなのでやはり長春大飯店にする。おばちゃんは残念そうだったが、ちゃんと連れて行ってくれた。

長春大飯店は老舗でかなり有名なようだが、古くなって改装もされておらず、けっこうぼろい。フロントは中国語しか通じなかったが、陽気なおばさんが何人もいて和やかにチェックインする。1200NT$(¥5676)/泊。部屋の電話の留守電メッセージランプがついているのが気になったが、廊下に出てみると、どの電話もメッセージランプがついていた。根本的に使い方を誤っているのではないだろうか。


馬公暮色

暮れかかる馬公の町を歩く。地方の温泉町や海水浴場のある観光地といった、ちょっとひなびた風情である。澎湖島は、観光と軍事の島であり、歩いている人のほとんどは観光客か軍人だ。観光客は、見たところ99%(すなわち私たち以外)は国内からである。群れをなして歩いている迷彩服の軍人は怖いが、実は當兵兵役の若者が多く、よく見ると皆あどけない。

繁華街に多いのは旅行代理店とお土産物屋さんだ。それからこの町には理髪店が多い。繁華街を少しはずれると、風俗系理髪店がたくさんある。風俗系理髪店とは、‘理髪’の看板を掲げているが、散髪はしてくれない風俗のお店である。中が見えないガラスに派手なネオンで、ふつうの理髪店との違いは明らかだ。なぜか、ふつうの理髪店も町の人口に比べて異様に多い。飲食店はあまり多くなく、軍人の多い店を避けて四川牛肉麺の店で夕食を食べる。台灣啤酒、麺、豆腐などでNT$175(¥828)。

長春大飯店のお風呂もシャワーカーテンがなく、シャワーのお湯は潮辛かった。おそらく中南部では、シャワーカーテンがないのが普通なのだろう。



[1] 阿清たちが住むアパート
1998年の訪台時に、アパートのあった場所が空き地になっていることがわかった。タイトルのリンクを参照のこと。
[2] 軍事訓練
後で聞いた話では、その日に訓練があることはあらかじめわかっていて、ホテルによっては宿泊客に教えてくれるらしい。

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作成日:1998年6月25日(木)
更新日:2004年10月3日(日)