淮海中路 [huai2 hai3 zhong1 lu3]
霞飛路 Avenue Joffre

■堀田善衛:『上海にて』[B133]

 主な道路の名前は、少くとも三通りは知っていた。三通りというのは、たとえば、旧仏租界の大通りである、中国人たちが法国梧桐(フランス桐)と呼んでいるアカシヤの並木のある霞飛路(上海語でヤーフィロと発音した)は、そのフランス名は、Avenue de Joffre すなわち第一次大戦時のフランスの将軍であったジョッフル元帥の名をとってつけたものであり、これが太平洋戦争開始と同時に、日本軍が租界を接収し、南京の汪精衛政権に返還(?)されたとき、汪精衛はこれに中山路という、孫文の号をとってつけ、一九四五年、日本軍が降伏し、これが重慶の蒋介石に再返還(?)されたとき、蒋介石の号である「中正」をこの道にとってつけ、中正路と称した。更にこれが、一九四九年五月に、上海が解放され、これが上海市民に返還されたとき、個人名を道路につけることは一切廃止され、中国の地名の一つをとって淮海路と名づけられた。
 このほか、松井通とか明治通とかと、シナ事変後に日本人が改名したものもあった。米軍による占領中には、横須賀の大通はマッカーサー通と呼ばれていたものである。
 アヴェニュ・ド・ジョッフル=霞飛路→中山路→中正路→淮海路
 これがたった一つの通りの名の変遷であり、歴史でもあった。そのことを私は知っていた。旧共同租界や旧仏租界にあって、それぞれの租界当局が命名した外人名や外国地名のついていた道路は、汪精衛政権の命名になるものと、蒋介石政権の命名になるものと、人民政権の命名になったものとの、四つの歴史をもっていた。そういうことのくさぐさを、その通りへ行ってみると、われながら異様な明瞭さで私は覚えていた。(《町の名の歴史》pp37-38)