内山書店

■金子光晴:『どくろ杯』[B42]

 日本書店の内山完造さんの店のすじむかいの余慶坊イイチンバンという一劃の入り口で、車を下りた。……(《上海灘》p133)
 私たちが、余慶坊イイチンバンの石丸りかの家の二階の裏の小部屋におちついてから二三日で、彼女は、瘧おこりをふるって、高熱を出した。判然とマラリアの症状であった。北四川路の対面の内山書店でその話をすると、早速、奥さんがキニーネの錠剤をもって見舞いにきてくれた。毎日定った時間に起きる発作を、事前に止めることができる薬の特効のてき面さにおどろいたものだ。漆喰壁から滲透する陰湿と寒気は、身に沁み、骨を凍らせるおもいであった。見兼ねた老婆が、じぶんは畳のうえに移って、前面のたたきに据えたダブルベッドを私たちにゆずってくれた。
 寒さで耐えられなくなると私たちは、内山書店の奥のたまり場のストーブにからだをあたために出かけた。時によってさまざまな連中がそこに聚っていて、梁山泊の聚議庁であった。時代によって変転があって、聚る顔ぶれは変ったが、呉越同舟、中国人も日本人もこの場だけでは、腹蔵のない意見を闘わせ、互いのこころの流れあえる場になっていた。主人の内山完造は、よい引出し役であり、調停係りであり、偏らざる理解者であって、あまり類のない、たのしいコーナーの提供者でもあった。(《猪鹿蝶》pp137-138)
 北四川路魏威里の今日の店を開いて、内山先生シイサンは、中日双方の文化の交流に貢献したり、但し、当時の中国の青年達はクロポトキンでも、マルクス、エンゲルスでも、日本語の翻訳を通じて勉強するしかないので、従って、そうした思想上の書物が飛ぶように売れるので、毎月八万円という、当時としては、莫大な純益があるとかで、がばがばと金が入ってきて、数少い日本人成功者の筆頭とならざるをえぬ仕儀にもなった。自然、僕らのように迷惑をかけに来る邦人たちも多く、それもまたキリスト教のお蔭で、一視同仁、うんうんと言うことをきいてやらなければならない結果にもなっていた。
 先にも述べた、鼠いろのジャケツで坊主あたまの内山先生は、訪欧の途次などに立寄る名士などを、一夕四馬路の菜館によんで招宴をひらくのを常としたが、陪席に中国の文士たち、とぐろを巻いていた村松梢風とか、数にもならぬ私達までも末席に招かれた。これも日中の文化交流の一つであるが、正直私達は、卓料理の玩味が目的の第一で、辞退もしらず、いそいそと出かけた。(《猪鹿蝶》pp138-139)
 内山書店でも、この二人と出会うことが多かった。奥のサロンの椅子に腰掛けていたり、書棚の前に並んで貼りついていたりした。内山書店は、中日の知識人の友好の場であったばかりでなく、中国人の知識の栄養の「乳首」の役割をしていた。中国の知識人の多くは、同文の日本語によって、世界の知識を吸収することが簡便な方法だったので、むかしから、中国の新しい文化活動は、日本留学の中国青年による開発を待つのを常とした。武者小路実篤の人道主義を魁として、日本の小説、思想の本が、中国人によまれ、その影響を与えることが大きかった。当時の社会主義思想、とりわけ『資本論』をはじめ、おびただしい日本の翻訳書が、内山書店の書棚から中国人のあいだに流れこんで、革命論者の血となり、肉となったことをおもいあわせると、この書棚はよいにせよ、悪いにせよ、たいへんな役割を果したとおもわずにはいられない。内山先生は、もちろん承知の上でその役割を果すことを甘受していた。彼が、魯迅の終焉を見とり、郭沫若その他の左翼学者や、思想家たちを日本のそれと結びつけるために労をいとわなかったことも、彼じしんのキリスト教との食いちがいをどこで融通し、どこで補綴したものにせよ、たいへんな度胸と言わなければなるまい。奥さんはたしか静枝さんと言ったとおもうが、上海で死に、内山さんじしんは、共産革命後招かれて、北京で死んで、奥さんの埋っている静安寺墓地のおなじ墳墓でいまは眠っている。
 内山書店の書棚の前には、創造社の連中、前の鄭君をはじめとして、詩人の王独清ワントチンなどが当時、常連となっていて、魯迅と、郁達夫を白眼でみていた。彼らを一視同仁にみて、他愛なく結びつけようとする内山夫妻の態度は、キリスト教的だと言えるかもしれない。(《胡桃割り》pp160-161)

■金子光晴:『詩人』[B116]

 ……上海の創造社の連中とも交渉があった。立役者は鄭伯奇や、詩人王独清、作家には張資平、茅盾がいた。内山書店には、そんな連中が誰か来ていた。パン・ウル(宇留河泰呂)がお河童で、上海の街をふらふらしていた。魯迅と郁達夫は、いつも肩を並べてあるいていた。
 痩せ型のちょっと日本人のような顔の郁と、少し背の低い、たれ髯の、好々爺然とした魯迅は、北四川路の横浜橋ワンパンジョのあたりや、内山書店の裏にあたる小路を、話に実が入りながら近づいてくる。……(《日本を追われて》p160)

注:‘魏盛里’の間違いではないかと思われる。


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更新日:2001年4月4日(水)